haruの窓

北海道発

三国連太郎の死に

三国連太郎が逝去した。90歳だったそうだ。
 
俺が三国連太郎を知ったのは、昭和29年の洞爺丸台風での、岩内大火を題材にした、水上勉の小説「飢餓海峡」の小説と、それを映画化した同名の映画を見たことによる。
 
岩内大火があった日に丁度岩内に泊まり、伯母と祖母に背負われて逃げた思い出を持つものにとっては、この小説や映画は見ないわけにはいかなかった。
それが、俺にとっての三国連太郎だったのだ。執拗に追求の手を逃れる彼のぎらぎらとした目を未だに忘れることができない。釣りバカで見せる、スーさんの穏やかな味わいも捨てがたいものがあるが。
 
さて、今日の東京新聞のコラム・筆洗に、彼のことが書かれている。

旧制中学を中退し、伊豆の家を飛び出したのは十六歳の時だった。釜山で駅弁を売っていた時に日中戦争が始まった。次々と到着する臨時列車に、不安げな眼をした若い日本兵が詰め込まれてゆく▼数年後、徴兵忌避を図るも失敗。見送った兵隊と同じ道をたどった。八路軍に攻撃され、肥だめに一晩漬かって命拾いしたこともある。原隊を出発した千数百人の戦友のうち、半数以上が戦死した▼九十歳で亡くなった俳優の三国連太郎さんは、戦死者の犠牲の上に自らが立っているという引け目や責任感を背負ってきた人だった。その感覚は、どんな役を演じても通奏低音のように響いていたように思う▼俳優としての名声を確立した四十代の後半、足が宙に浮いているように感じて旅に出た。インドやパキスタンなどを三カ月間放浪し、広大な砂漠の中で人間はごみのような存在だと思い知らされる▼「大自然の中では、人間は河床の砂の一粒みたいなもので、私という個人の苦悩なんてどうってことなかったんです」(沖浦和光さんとの対談「『芸能と差別』の深層」)▼せりふを自分の体の細胞の一つにしなければ、演じられないと、何百回も台本を読み込み、役のためには歯まで抜く壮絶な役者魂が戦後を代表する名優の源泉だった。戒名は要らない、と長男の佐藤浩市さんに伝えていたという。放浪の旅は終わった。